昭和41年06月10日 月次祭



 神の恵みを人知らず、親の思いを子知らずと。神様のこれはお嘆きのお言葉であると、私は思うのです。神の恵みを人知らず。今日はそこのところを少しお話してみたいと思います。今日は珍しく、珍しいお酒があの、中央の段にお供えがあっておる。真ん中に一本お供えしてあります中央に。今日はあれはあの神露、神の露と書いてある。それから私、只今の御理解を頂いたんです。神の恵みを人知らず。親の思いを子知らずと。まぁ親の思いを子知らずというところもですけれど。
 特に一つ今日は神の恵みを人知らずというところを、ぜひ頂いて頂きたい。神様の恵みが分かりませんとね。私共がその有難い勿体ないの、真実その幸せな生活が出来んのです。そこでその両脇にあの三本づつ、お供えがしてございますでしょう。右の端にまたこれは珍しいお酒が、今日お供えしてある。これは灘の富貴というお酒、灘酒。富貴という酒。その前に朝凪と言う、あれは朝凪の赤ですから一級酒です。富貴というお酒の前に、朝凪というお酒のお供えがしてある。
 それをまた今度は、中央から左の方へまた三本お供えしてある。これはおなじみの山の寿が二本。その前に朝凪の二級酒がお供えしてある。ね。一つここんところから頂いた。これは皆さん一つこれだけなら、皆さんが覚えておれる。真ん中に神露というお神酒のお供えが一本あった。片一方には富貴という、お互いが願いに願い求めに求めておる、おかげのこと。ね。富貴を願わないものはありません。富み栄えることですから。ね。それにはやはり私共が修行する。
 山の寿のように信心も、山登りも同じ事という生まずたゆまざるところの、山登り的な修行というものが、続けられなければならない。どちらにしましてもそれは、朝参りでならなければならないということ。昨日、一昨日でしたか。ある方が久しぶりにお参りになられた。その方はあのパーマの職人をなさっておられましたな。で今度そのパーマ屋さんを始められることになったんです。運びになったんです。そこでこちらはご主人が、非常に椛目の金光様にお願いをして、色々とおかげを頂いた方。
 もう本当に大変なおかげを頂かれた。それはもうそのお願いに来ると、やっぱおかげを受けるんですね。それも年に何回かではあるけれどもお参りになる。ここにもあんまり敷居が高うなってお参りが出来んけん、中西さんあなたばつんのうて来て下さいち言うて、中西さんの奥さんのその忙しいのをです。引っ張ってその参ってきなさった。なかなか勇ましいお方である。様に見える方。女でもやっぱ勇ましい方があるんですよね。それで私はあの色々とお取次ぎさせて頂いて、そのお届けの内容というのがです。
 色々ございましたけれども、パーマを開きたいから、そのお店の名前を頂きたいと言った。何々パーマ、ね。何々美容室を言った様な風に、その名前を頂きたい。そしたらその方がですね。こう白鉢巻をしてから長刀を下に持って、こうしとられるところを頂きますもん。はぁやっぱりこの方は、勇ましい方だなぁと私は思うた。それで私が見る目も、神様が見る目も変わらん。そらもうやっぱり勇ましい。そん変わりもう竹を割ったような性格の方らしい。ね。
 しかしこら勇ましいどういうことだろうか。これがそのパーマ屋さんの、そのいわば看板になるのだろうかと私は思うた。それからまた私神様にお願いさせて頂きよりましたら、あの朝凪と言うのを頂きました。ははぁ長刀のなぎと朝凪のなぎと言う字が同じだから、ははぁこれは、なぎと言う名前を付けてあげたらいいなと、私は思うた。なかなかいい名前でないか、ね。私共は聴いたことが無いね。なぎ美容室なんか。ね。そしてその御理解になぎは和に通ずるという御理解を頂いた。
 凪なぎと言う字は風と言う字を買いて、中に止めると書いてある。風を止める。穏やか。それはこの和に通じるのである。言うて私はそれに丸を書いて渡した。これに通じるのだ。もう大変喜ばれましてから、もう今日んごつ嬉しいことはなかち言うてその、中西さんの奥さんに、その言うておられるんです。まぁ自分の思う以上の名前を頂いたという意味でしょう。だからそれだけではいけないんですよ。
 その方は名前が森田さんだったか、だから私が田はおかげの受け場だから、そのおかげを受けるためには、この凪のおかげを頂くために、問題はあんた自身の心が凪なければいけんのだぞ。でなかったらこれは、どんなにおかげを頂いても繁盛のおかげにはならん。第一その田はあなたが持っておられる。受けものは持っておられるから、これにその、森という字がが必要なんだ。森と言う字は木が三つ書いてある。第一ご主人を大事になさないけません。ね。それからその職人さん、ね。
 パーマの職人さんを雇わにゃならん。職人さん。あなたご主人その三つの木がです。ちょうどこの森と言う字のように、調和を保っていかなければ、離れたらおかげにならん。ちょっと難しいごたる顔した。そこがなかなか難しかとこですもんのと言う顔をしとりなさった。えっへへへ。ね。けれどもここに心掛けることがおかげなのだ。ね。ご主人とばっかり仲の良かったっちゃ、職人と仲の悪かならもういかん。ね。
 そこであなたがどうでも、月のうち何回かと定めさせて頂いて、信心の稽古自分の心がいつも平生で、凪ておるおかげを頂くために、一つおかげを頂かにゃいけませんと言うて、まぁ申し上げたことでございますけれども。今日はその期せずしてから、その凪がその一級酒と二級酒が、でがけにお供えが来た。ね。しかもそれが、ね。お互いが求め願っておるところの、富貴のおかげの前に、先ず一級酒の朝凪が必要なのだ。ね。誰でも修行の時にはやっぱきつい。ね。
 有難いとその言おうと思うてもね。いや有難いと思おうとも思わん。ね。けどもせめてまぁ二級酒位な凪にはならにゃいけん。二級酒位な程度には有難いと言う事にならなきゃいけん。おかげは受けた時には誰でも有難い。ね。ですから修行をさせて頂く時も、また有難いと解らにゃいけん。ね。有難いとお礼申し上げにゃいけん。皆さんに色々とお祈り添え頂いておる、秋永一家の事も大変おかげを頂いております。
 昨日、昨日一昨日か、面会謝絶の札も取られました。けれどもやはり皆さん、遠慮して下さったがいいと言う託もあっておりますから。面会あのお見舞いやらは、まぁ一週間ぐらい先になさったが良いと思うんですけれども。そのようなおかげを頂いて、一週間ぶりにお通じのおかげも頂いて、今日文雄さんがさっきから、話をしておりましたのに、沢山のその大便と共にですね。どこから出たか分からんけれども、骨が沢山出てきた。神様はどういう中のほうの、いわばその事をなさるか分からないですね。ね。
 椛目である方がですね、あるお願いをなさる時に、この男の生殖器から骨が出てきた人があります。腐った骨がこのくらい、ね。だからそれはそのくらいな事は、またあろうかと私は思うのですね。ちょうど三四日前でございました。ちょうどあのフミさん参って見えられましたから、もう親先生親先生ち言うてからもう、会いたがっております。それでそら私も会いたいのだけれど、そんならあの迎えにあがりますからと。
 同じ様なら早かが良かばいと、私はまぁ託けしとったものの、その日来るとは思わなかったけども、その日の夕方呼びに来ております。それから私はもう取るものもとりあえず、神様にお願いさせて頂いたらね。もう会いたい一心で行けと仰った。問題は一心が大事なんですね。神様にどういう様な気持ちでと私は聞いた。会いたい一心で行けと仰った。もう私はね病室に入る前にこう深呼吸しました。
 家内が行きがけに「あぁた行ってから、秋永先生の前で、泣いちゃいかんですよ」ち言うもんじゃき、「泣くもんかい」ち言うちから。ところがどうしてこのまま入ったら、もう顔見たとたんに泣き出そうごたる感じがしてきましたから、一遍前に立ってからですね、深呼吸してから心を平生に、それこそ和らいだ心にしてから中に入ったんですけれども、ね。おかげを頂いてから、久しぶりに面会させてもろうて、もうそれからもう、小一時間、話しました。
 あんまり話したから、あくる日熱が出るようなことはなかじゃろうかと思うて、心配しておりましたら、おかげでそれからご飯も美味しゅう頂けるようになり、おかげでと言うことでございましたが、その時に秋永先生が一番初めに、私に申しましたことが、「親先生、この度と言うこの度はもう死んでも、私は文句の言えることじゃございませんでした」という事であった。ね。それで親先生御造営の終えるまでは、仕方の残ったのは思われませんよと言う事であった。
 御造営の済むまでは、仕方のないことでも思われん、ね。勿論したらなおさら思うことでもいかんと言うて、言うております。ね。三番目に言うたことはです、目をつぶれば泣くまいと思うても、泣かにゃおられませんと。神様はおかげを下さってから、本当に有難い。いわゆるそれこそ大変な山の修行させて頂きよるなかにです。それこそ一級酒の朝凪がお供えしてあるようなものだと私は思う。ね。これが力にならんはずはない。ね。まぁそう私は思わせて頂いた。ね。
 日頃信心の稽古をさせて頂いております。信心しとって、どうしてこのような事が起こってくるじゃろうかと。例えば周囲が思うような場合でもです。自分は泣くまいと思うても、泣かなければおられんという様な、有難いものを感ずることが出来るのです。ね。そこで皆さんがです、ね。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありと。これが御道の信心の中心なのだ。ね。天地書附と言う。そのことを忘れるなよと。外に買い物に出る時に、ね。
 あれも買わんならん、これも買わんならんと言うて、書付をしていくと、ものを忘れんで済むようにこの書付を、見良いところに貼っておけよと教祖は仰って、それを誰彼にお書き下げになったのが、この天地書附である。天地書附と言うのはそういう意味なんだ。買い物に行く時に、あれとこれとこれを買わんならん。あそこにも寄らんならんという風に書付をしていくのだ。そすと忘れんで済む。確かに忘れますよ。
 私は昨日、家内の父の四十年祭を奉仕させてもらった。久保山先生と、久富先生に奉仕して頂いた。で家内と二人でその、久留米にお供え物を買いに行ったのは良かったけれど、肝心要のお供えば買うてきとらん。果物やら野菜やら、あのお菓子やら買ったんですけれど、お魚を買うてきてない。お魚買いに行ってから、書付してなかったもんですから、忘れとる。ね。もうそれば買いにいっとるものまで忘れてしまう。忘れておらんごとおるけれども忘れる。天地書附というのはそういう意味。
 書き付けておけばよい、ね。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありとこう、手の平にでも書いてから、いつも見よるが良いというぐらいにです。天地書附と言うのは、大事にしなければならんのであり、まぁこれ一つでいうたら、おかげになるのであり、ね。そのことが出来ることのために、沢山の御教えがあると言うても良いぐらい。ね。そこで一心に頼ませて頂くことは、どうぞ私の心のなかにいわゆる凪の心、和らぎ喜ぶ心を頂かせて下さいと言うて、今月今日只今を祈っている。ね。
 それを忘れておる。思いだしゃ良いけれども、晩にならなきゃ思い出さん。はぁほんにあん時にお粗末じゃったご無礼じゃった。晩にでん思いだしゃまぁだ良かけれども、とうとう思いださんなり終えてしまうという事にもなりかねない。ね。信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうすると。もう本当に信心はみやすいもの。これいっちょ心付けけりゃ良い。書付ときゃ良い、ね。
 先日その事についての、新しい御理解の、まぁ御教えの深さというですね。こういうところに、こういう素晴らしい教学があったという様な御理解が、ちょうどこの頃十二日の日でしたかね。十二日の御祈念会の婦人の方達が頂いた、御理解のなかに、おかげは和賀心にありと、ね。あのおかげと言うのを、おかげと平仮名で書いておられると言う事です。おかげと言うのはそんなにみやすい。教祖の神様は無学の方であったとは思われない。自分はその百姓で何にも分からん無学と、こう仰るけれども。
 あれだけの様々な御教えを、書き残しておられる、そのご様子から思うて見ても、まぁ当時としては、相当の博識の方であったと、こう思われる。しかもあの和賀心などは、その自分の心とお書きにならずに、平仮名でお書きにならずに、ね。和らぎ喜ぶ心と書いておられるところなんかは、なかなかその当を得たものである。ね。そこにあの上におかげという字を知りなさらじゃったけん、平仮名で書きなさったとも思われない。そこんところがそのおかげとお書きになった。
 おかげとはねおかげとはどう言う様な事をもっておかげにするのか。ね。成程お願いをしておかげを頂いて。それもやっぱりおかげはおかげなんだけれど、それを金光大神の、一つの影のようなものに過ぎない。金光大神の影なんだ。ね。だから信心を自分のものにするために、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰る。信心によって、おかげを受けさせて頂くと言う所のおかげではない。こちらの信心が成長するに従って、それがこう影が宿ってくると言う様なおかげ。
 そういうおかげと言うのは、どう言う様なおかげをおかげと言うのであるかと。おかげと何故お書きになったのかと言うことの、まぁ追求でありましたけれども。まぁ今の昨日の御理解を頂かれると、詳しゅう出ております。ちょうどその日に、久富繁雄さんところの、国雄さんが朝の御祈念に参っておった。ちょうど秋永の家からも、フミさんと徹君と二人で親子で参っておった。それで御祈念が済んだら、ご挨拶をせんならん。まぁだ怪我をされてから、挨拶をしておらんから。
 どんな風に挨拶をしたら良かろうかと思うて、御神前に御祈念をさせて頂きよったら、頂いたことが、あの秋永先生が乗っておられる、小さいあれは何というですか、スバルと言うですか。と言うあの車がもうあれは、写真でごらんになった方は、もう本当にこんなになっておる。ぺちゃんこになってしまっておる。それがね、もう大型のとにかく、一番大型の乗用車。まぁ外車のような大きな大型の自動車に変わられた。しかもそれに秋永一家の方達が乗っておられるという、お知らせを頂いた。ね。
 こんなに小さい車から、こんなに大きな車に変えられた。しかも秋永一家の人が、それに皆んな乗っておられた。車はいつも特等車。乗り物のことは特等車と言われるが、小さいこの位の時から、今度はこう言う大きなお徳を下さろうとする、神様の願いであり思いである。ね。してみるとこれは、本当にお負傷様でも無からなければ、本当にお気の毒であったというのでも無いのである。本当に分かれば分かるほど、おかげを頂かれてと、こういうことにしかないのである。
 今度は大変なおかげを頂かれましたなぁと言う他に、ご挨拶もないのである。ね。この辺がいつも初めに申します、その神の恵みを人知らずと仰る。神の恵みが分からないと、私共が本当にお気の毒でございました、ね。という事になってくるのです。ね。これはまた自分の上にでもそうです。信心しているのに、どうしてこの様な事がと言う事になって来るのです。神の恵みを知らんから。ね。神の恵みを人知らず。ね。神様のお恵みの、やむにやまれん、あれは表現なのだ。ね。
 ですから例えばそのご挨拶の上においても、本当に大変な事でしたね、お気の毒でしたね。私は秋永先生に言った時に、ただの思わず出たのはご苦労さんと言うのが、一番口だった。嘉朗さんを見たら嘉朗さんご苦労さん。お婆ちゃんがもう一人、お婆ちゃんご苦労さん。私はこれが三人に対する、いうならお見舞いの言葉であった。ね。後から考えて、はぁこういう寝とる時にご苦労さんと言うたんが、家内がお産の時に、私は必ず家内にご苦労さんと、お礼に二階に休んどる時は二階に上がって行ってから。
 お母さんご苦労さんといってお礼を言うんです。ね。本当に良いものを生み出してくれたんですから、ね。まぁそれに良く似た意味だったと、こう思うんです。ね。それは私は神の恵みを恵みとして、おぼろげながらでも分かっておるから、ご苦労さんと言う言葉が出る。ね。まぁだこれでほんなら済んだわけでないから、これからもまたお願いしますよと、ね。それは苦しみもある窮屈でもあろうけれども、ね。
 神の恵みが恵みとして分からせて頂くと、じっと目をつぶりゃ泣かにゃおられんと言う、秋永先生の気持ちが分かるような気がするじゃないですか。ね。信心はみやすいものじゃがと仰る。ここに至ってくる時に、本当に信心と言うのは、みやすいということが分かるでしょう。だからここまでが大事なんです。これまでが難しいといや難しい。ね。神の恵みを人知らずと。神の恵みを恵みとして分からせて頂く時に、叩かれても有難いのであり、ね。勿論撫でられてもさすられても、それは有難いのだけれど。
 そういう撫でられたりさすられた時には、案外迂闊にしておるものだ。本当は一級酒の朝凪が前にあらなければならんのに、当たり前のことのように思うて、その有難いことに胡坐をかいて、おかげを落とすような事がある。先月のお月次祭だったですかね。古賀先生が参りになっておった。今日手紙が来た。一晩泊まってあくる日遅うから帰った。それに学生会の原稿を言われておったから。原稿と一緒に手紙が来ておるけど、こら原稿よりも、この私に宛てておる手紙の方が、こら新聞に載せるとに良かたい。
 と私はまぁ言た位でございましたけど、ね。椛目で一年ぶりに会わせて頂く、私一年ぶりにじかに又は直接に、夜遅うまでご理解頂いた御理解。それが身に染んで有難かったとと。帰りには私は必ず参りますとその、あの人が喘息持ちですから、お神酒を託けます。お神酒を託けましたけど、もうこちらも別に何ともないのだけれど、向こうでも何か当たり前のものを持っていくごとしてから、その貰うてそれをその途中、汽車の中で気が付いたらしい。しかもおかげを受けてから、初めてはっと気が付いた。
 本当にもうこんな広大なものを頂いておってから本当に。親先生がこれを持ってきてから、「はい」ち言うてから、何かその有難うございますも言わんなり、持って来たごたったと、その汽車の中で気付かせて頂いて、汽車の中で、残念に思いましたと書いてある。ね。ここでお夕食を頂いて、ゆっくりさせて頂いて、もし間に合わんとに、またこっつぁん帰ってくるぐらいなつもりで、帰らせて頂いたところが。駅に着かせて頂いたら、ちょうど電車が来た。私が乗ったのと、ドアが閉まるのが一緒であった。
 まぁおかげ頂いたなぁと思うて、また原田まで行った。あそこで六分間待った。それが最終のものであった。あれに乗り遅れとったら、本当に椛目さん帰らなければならなかった。もう神様のお守りの中に、いつも仰る親先生の椛目流のおかげを、身にしみじみ感じさせて頂きながら有難いと思うたら、あらお神酒頂いて来よったのが分かったち言う。そんなもんじゃないでしょうかね。おかげを本当に実感しないとです。
 もう本当に最高のお神酒、最高のおかげを頂いておっても、はぁ勿体ない有難うございますと言えんのです。ね。如何に、神様のお働きと言うものを、身近に感じるおかげを頂かねばならんかと言うことが分かる。ね。お互いがおかげを頂きたいのである、ね。ですからいつも凪た心、和らいだ心を頂きたい。本当にいわばこれに書付をしておくように、いつも忘れんように、そのことを心に頂いておかなければならんのだけれども、時々に腹が立ったり心が穏やかでない時がある。ね。
 そこでその時に教えを色々に、思うて見なければいけん。果たして今私がね。穏やかでないと思うておるが、どう言う様な事で穏やかでないのか。昨日長男が今日のお祭りを、拝んで今晩もう着いておりますでしょう。九時もうちょっと十時前の汽車でしたから、急行で帰って来よる。親先生のお供をして、御本部参拝を指して頂いておる。それでもう出かけようとしよるところへ、善導寺から電話がかかってきた。
 それであの「こちらさん来いと言うとったばってんから、もうこちらは自動車で行くけんで、もうあんたはぶっつけ、駅さん行かんの」ち言うてから、電話のかかってきとるわけ。それで一人でぶりぶり腹かきよりますもん。ほんなもうしゃっち、御本部参拝する時は親教会に寄らないけん。そして寄ってくれんの年寄りじゃけん、荷物を持ってくれんのち言うちゃったけん、こっちはそのつもりで早いけども。
 用意して用意しとったのに。わが良かこつばっかり言うちから、ほんなもう俺ば乗せまいと思うちからち言うてから、腹かいとりますもん。そるきんちょいとまぁ勝彦ちゃんな、そら反対のこつば考えよるばい。もう寄らんでもよしもうすうった行きゃ良かけん、まぁだお前はまぁ二三十分ぐらい、ゆっくりして行って良かが。はぁおかげ頂いたち言うとこじゃないだろうかという事をです。私共はそう言う様な事を、私共が心が穏やかでなかったり、腹を立てたりしてるようなことは無かろうか。
 本当にこら神の恵みである。だからこれから例えば、汽車の中でも合楽行くでもちょうどこの程度、この度合いのところを忘れるな。この度合いのところで、その親先生とご一緒にお供させていただいたら良いぞと。これから以上の事を、出過ぎることになるのぞと、ね。出過ぎらん様に引っ込み過ぎらん様に、ちょうど良いところを守らせて頂けれる、いわば、その生き方をお前の出発に際して、こうして下さっておるようなもんじゃないか。そういや、そうですね。
 「僕は、大体、ひがんどるち言われとるけんで、もうそこんとこは慣れとるばってんが」ち言うてから言いよります。ね。本当にお礼を申し上げなばならんところをです。私共が、迂闊にお礼を申し上げずに、腹を立てておるようなことは無かろうか。腹を立てるだけには良いんです。ね。またそら直るから。けれどもその腹を立てたそこからです。おかげが漏ることがあるから大変なんです。ね。紙が破れる紙が破れた。そこから隙間風が入ってくる。隙間風が入ってくるだけなら良いけれども、ね。
 そこから隙間風が入ってくるだけではなくて、おかげのほうが漏ってしまう。ね。いわゆる、そこから、真風が入ってくるようなことになると大変です。如何に私共の心と言うものを大事に、大事にね。凪の心に努めなければならないか。和らぎ喜ぶ心にならせて頂くことを努めなければならないかという事が分かる。その事を朝に晩に、それこそ百八十何か条の御教えを、そのことのために下さっておるというても良いくらいに、あらゆる角度からお互いの心の中に、凪の心和らぎの心を頂かせて下さる為に。
 教えておって下さる。ね。しかもそれは、おかげを受けたときだけではなくて、只今修行中なんだ。いわば突発的な、そういう様な場合であってもです。ね。本当に目をつぶれば有難涙がこぼれると言う位な所まで、日頃信心を進めておかなければならない。ね。そこが分からせて頂く時です。成程教祖の神様が、天地書附に、おかげとこうおかげと言うのを、平仮名でお書きになった訳が、分かるような気がするじゃないですか。そんなに見やすいものなのです。
 それを氏子から難しゅうする。ね。氏子から難しゅうしてから、腹を立てておる。難しゅうしてから悔やんでおる。もう確かにこの方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労をさせんと、仰るのであるから。もうしらごとにでんよかけんで一時ばっかり有難うございます。腹の立つ時にはですしらごっでんよかけん、有難うございます有難うございますと、言いよる内にです。本当のことが段々分かってくる。いわゆる隙を作る、ね。おかげを落とさん、いわば隙間を作らにゃいかん。
 そういう私は精進が、私は信心だと思うのです。ね。お互いが本当に富貴のおかげを願い、ね。冥加栄える富貴繁盛とも頂いたことがある。ね。富貴繁盛のおかげを頂くためには、先ず冥加栄えるところのおかげを頂かなければならない。喜びの妙なのである。喜びで心の中がいっぱいなのである。しかも、死ぬか生きるかと言う様な、なら秋永先生の場合は、あぁいう大難に直面いたしましても、死んでも言い分な無かった私が、こうして助けて頂いておるということ。
 思えば思うほど目を瞑れば、泣かねばおられんと言う、その心というものをです。日頃如何に大事に育てていかなければならないかという事が分かる。稽古しなければ駄目。些細な事のなかからでも、稽古しなければいかん。こんくらいな事は腹かいても良かろうということは無い。こん位な事は、自分の心を乱しても良かろうという事は無い。けれども乱すこともありゃ、腹を立てることもあるんだけれども、そこを嘘にでも良いから有難うございます、有難うございますと。
 金光様金光様と一心に願え、おかげは和賀心にありと言う所をです。大事にしていかなければならない。そしてそこのにきが分かり込ませて頂いてしもうた時に、信心はいよいよみやすいものになってくる。ね。どんな場合でも山の寿の前にも、朝凪があり勿論、富貴の前にも、一級酒的な朝凪があるように。お互いがですね、ここんところを土台にして、おかげを頂いたものでないとです。そういうところが、分からんなりに、財産が出来たり、おかげ頂いたような形になるとです。
 それこそ古賀先生の、それじゃないけれども、迂闊にして忘れておるのです。ね。ですから折角頂いたおかげを、また落とさなければならない、戻さなければならない様な事になっては馬鹿らしいでしょう。ね。ですからどうでも一つ、その山の寿の時代にです、修行の時にです。そのなかに真実有難いもの、いわゆる神の恵みを恵みと悟らせて貰う信心を、身に付けておかねばならん。しかもそれは天地書附である。
 いつも自分の心に、書き付けさせて頂いて、忘れんようにこのことを願い続け、思い続けさせて頂いておれば良いのであるけれども、ふと忘れておる。そして腹が立つ。そして悔やんでおる悩んでおる。又は恨んでおったり、ねたんでおったりするような事にまでなりかねない。ね。これではおかげの、いわば受け場が無い。おかげは受けよる様にあるけれども、頂いておるおかげまで、そこからまた漏らさなければならないような結果になることをです思うです。ね
 ここんところを忠実に、ね。ここんところを本気で、実意に丁寧に、神信心していくという事が御道の信心の、日々の生き方でなかろうかと思う。ね。今日のお供えの、中段にあります、神露。そして、富貴。そして、山の寿。その前面に、朝凪というお酒がある。森田さんが頂かれたように、ね。長刀ではいかん。喧嘩する、ね。やはり、朝凪の凪でなからにゃいかん。自分の心が凪ておらなければいかん。親と子供と自分の周囲と、一切とがです。森と言う字になって、調和を保っておらなければならん。ね。
 そこにおかげが約束される。そこに神の恵みを十二分に受けていくことが出来る。神の恵みを受けさせて頂くそこに、有難い勿体ないの生活がある。ね。そこまで一つお互いが、こぎつける信心。そこに修行がいる。生まずたゆまずのどのような場合でもおかげぞと、言えれる信心でなからにゃいかん。そら困ったこつじゃあるねと言わんで済む信心。どんな場合でも、よろよろせんで済む信心。ね。
 私共は日々心に背く、いわば背信の行為をしておる。心の中に喜ぼうと思うても喜べない。こんな心に背くことばかりしておる。教えに背くことばっかりしておると思うもんだから、喜びの心なんかは与えられる筈が無い。ね。教えだから忠実でなからないけん。例えば、そう言う様な場合であってもです。神様に心を打ち向けさせて貰うて、お詫びをさせて頂いておると、神様がもう許したぞと仰るような働きを、もう目の前に教えて下さる。これが有難い。ね。不思議なんです。
 もう不思議なんです。ね。何とはなしに、自分の心に背信行為がある時にはです。何とはなしに、神様から自分の心が遠のいておる。神様が遠うなってござるのじゃないけれども、こちらの心、遠うなっておる気がする。拝んでも拝んでも、神様とは離れたような気がする。そこにお詫びがある。詫びていきよるうちに、神様が許して下さったんだなぁと言う印をです。もう確かに見せて下さる。この神様はね、おかげを頂かそうと、もうたまらんと言う思いを持ってござることを、私はいつも実感する。
 そしてもうそのことは分かった。もう許したぞ、こう言うて下さる様な気がする。そこからまた新しい和らぎの心が、凪の心が頂ける。そん心を頂いていかねばならん。ね。どうぞ一つ神の恵みを人知らず、ね。親の思いを子知らずと仰るが、ね。今日はその神の恵みを人知らずというところ。神の恵みを、私共が本当に信奉者の私共がです。よう分かっていない証拠に不平不足がある。神の恵みを恵みとして分かったら、どのような場合でも、神様のご都合として、ね。
 神様のやむにやまれないお働きとして、それを有難く受けて行く事が出来るのである。ね。ここんところまではひとつ、皆さんこぎつけて頂きたい。ここんところまでは、信心を自分のものにしておらなければ、信心頂く値打ちがない。ね。好いとるもんな好いとる。もう嫌いなもんな嫌い。摘み切るごという人がある。それじゃおかげにならん。ね。嫌いなものを好きになる精進をしなければいけん。
 もう私はあの人の顔を見ると、こう胸がむかむかしてくる。はぁあげなつが来よるけんで、こっちは回れ右して向こうさん行く。自分の世界というものは、狭くしてしまわなければならん。ね。だから、それだけならいいです。狭くなるだけで。ばってん、そこから、おかげが漏りよるのじゃから。ね。食べるものでも好かんでも、本気で好きになる稽古をさせてもらうために、先ず自分の心をです。自分のこの身体をです使うてから、もう何食べ立っちゃ美味しかち言うごと、一遍食べさせてもらわないけん。ね。
 好きとか嫌いとかというのは、あら贅沢なんだ。ね。私を見てごらんなさい。もう何でも好きになる。もう色なんかでもそうでしょう。もう私はもう非常に好き嫌いが多かった。特に一番大嫌いなのが、あのカーキ色である。橙色。もうこれはフルフル好かじゃった。ところがどうです、今私がその橙色が一番好きになっておるじゃないですか。もう椛目の色は橙色に決めたと言うて、委員長が言いよった。ね。外套も一つ橙色にしよう。この頃腕章も橙色でしょう。
 だからもう、今度は御本部参拝の時の旗でん何でん橙色で作る。一番好かん色が好きになる。いわゆる私の世界がですね、もう例えば七色にするならもう六色しかなかった。ところがおかげで十分な、ね。色の中に私が住む事が出来ると言う事。そうでしょう。もうあげなつは好かんと言うとがおる、気分な確かに悪くなる。そこで好きになるやっ、精進をせにゃいかん。ね。はぁそるけんよけい投げ出そうごとあるとです。そるきん私から撫ぜられよるち言うてから、私が嫌いと言うだけではないですけん、どうぞ。
 本当私はデリケートですけん、分からんち皆んなが。はっはは、ね。そすと段々好きになってくるから不思議です。ね。精進せないけません。そのことに努めなければ、ね。それがもう、私はもう好きなもんな好き、嫌いなもんな嫌いち言うて、はっきりするといい事は良いです。ね。それで良かろうごとあるです。もう私はあなたから、何いっちょ頼みはせんとじゃけ。あなたのいっちょ貰おうとは思わんから。それで良かろうごとあるけれどもです。信心はそこじゃいかんて。
 もうその人に会うた時に、私の凪の心がなくなるて。ね。そこからです。いやまたおかげが漏れるち言うんです。頂いたおかげが。だからどうでも好きにならにゃいかん。もう何もかにも、ね。人間関係なんかはです。ここのところが一つ体得させて貰うと、もう実にスムーズに行くようになります。ね。食べ物なんかでも何もかにも、あの人もよか人この人もよか人のなかにあって初めて極楽です。もう私が何食べたっちゃおご馳走と言う時に、それでいつも百味の御食を頂いておると言う事になるのですから。ね。
 だからその、嫌いなものがあっちゃいけません。だからもうあん奴のこつは好かんち言いよるけん。こっちも好かんち言うごたる風でですね。言うたらもう信心は無いです。もうあっちがあっちじゃけん、こっちもこっちと言うたり。あちらから好かれん時は、こちらがその精進をさせてもらう。ね。そすとまた好かれるようにもなる。今日はそう言う様な意味でですね。凪の心をもう試し続けさせて頂くために、ね。
 和らぎ喜ぶ心を頂き続けさせて頂くために、どうでも私共が何と言うても、神の恵みを知らなければいけない。自分の敵役のように思うておった人も、それは私の神様がです。お恵みの表れをそこにおいておって下さるのに。その、人でもでもね。そしたらその人が神様に見えるようになってくるのである。ね。そこに初めて、いわば神様が下さろうとするところのおかげ、ね。
 どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰るようなおかげ。そういうおかげが頂けて来る様になる事を、私はこれも私の体験から、ね。確信を持って皆さんにお伝えすることが出来る。どうぞ皆さんの周囲から、せめて好き嫌いのないようなおかげを頂くところの、努力をなされなければいけません。どうぞ一つ神の恵みを人知らずと、神様は嘆いておられます。ね。だから神を嘆かせて、私共がです、おかげを頂けるはずがない。神の恵みを恵みとして、本当に悟らせて貰うところに、有難い信心生活があるのでございます。
   どうぞ。